終わりからの始まり
今年も春先に地元の志太泉酒造さんからいただいた酒粕を茶畑に入れて土づくり。毎年、わざわざ有機米の酒粕を取り置いてくれる蔵主さんに感謝!昨年末の稲刈り後に田んぼから運んだ稲わらは、冬の間は土を覆い寒さや乾燥を防いでくれる。春になり気温が上がると、微生物に分解され土へ還っていく。土の上に置きさえすれば、稲わらなどの有機物はすぐに分解されるかといえば、そうではなく、分解されるためにはそのための条件が整っていなければならない。その一番の条件とは分解者と呼ばれる微生物などが生きやすい環境であるということ。自然界においては当然のことだが、農地では然にあらず。例えば、農薬や化学肥料を使っているお茶畑では稲わらや刈り草などが敷き込まれてから数ヶ月経っても、原型をとどめたまま分解されずに土の上に残っている光景をよく見かける。農薬や化学肥料は畑の土を微生物にとって生き難い環境にしてしまうだけでなく、本来微生物によって作り出される循環という生態系の仕組みを断絶してしまう。
何を土に還すか、それは畑を大きな循環の中で考えた時に、とても大切な問いだと思う。そんなことを考えていた折、哲学者の内山節氏のコラムが目に留まった。環境問題の議論が始まった初期の頃は、有害な化学物質などは生の世界に影響を及ぼすもの(健康被害など)としてとらえられていたのが、最近若者を中心とした環境問題への意識の高まりの中で、環境問題を循環の破綻としてとらえる傾向が生まれてきたという。本来であれば、自然から生まれたものが自然に還っていくという物質循環の中に人間を含む全ての生き物たちが存在していた。ところが人間はその経済活動の中で様々な化学物質や放射性物質など無害化されるまで途方もない年月を要する物質を環境中に放出し、人間では制御不能な状態に陥っている。内山氏によると「すべてのものは誕生し、終焉を迎える。その循環が破綻したとき、重大な環境問題が生じる。そしてひとつの物質の終焉を物質の死ととらえれば、すべてのものの無事な死こそが、次の無事な時代を作り出す基盤になる」という。
すべての生の基盤には死があるということ。そしてその死が「無事な終焉」であればこそ、無事な未来を描くことができる。それを農業に当てはめて考えた時、土に何を還すかは、自然界における関係の結び方であり、調和にも破壊にもなりうる。農業が地球の環境破壊に大きな責任を負う現代だからこそ、循環の視点からの農業の在り方が問われている。
折しも福島第一原発の汚染水を海洋放出する方針を政府が正式決定した。廃炉の先行きは見えず、今でも6万人以上が避難生活を強いられている。そして1日に140トンずつ汚染水が増え続けている現状。現代社会が自然から隔たり、人と自然の距離が広がる中で、本来であれば自身の痛みとして感じるような破壊が、どこか他人事のように捉えられていることに強い危機感を抱く。 人間社会と自然界の間に大きな断絶がある時代だからこそ、農家はその循環を可視化する役割を担っていると思う。未来への広い視野は、大地との繋がりを土台にしてこそ見えてくる。食べることから、その食べ物が育った畑や里山、山から流れ出す清らかな水の流れやそこに生きる生き物たちとの繋がりに思いを巡らすことのできるものをつくり届けていきたい。
手と手で紡ぐ新茶2021
ご報告が遅くなりましたが、4月25日に無事今年の手摘み新茶をつくりました。直前の日程変更にも関わらず、48人もの方が山の上のお茶畑へ集まってくれました。皆さま、ありがとうございます!
新茶の手摘み。
少し前までは、村のあちらこちらで菅笠を被ったおばあさん達が茶摘みをする光景を見かけたものです。それが、この10年ほどの間に、そんな光景は消えてしまいました。
手でお茶を摘むというのは、単純な作業のようでいて、実は大変な経験と技術、そして体力を要する作業です。伸びた新芽の一芯二葉あたりの柔らかい部分を指先の感覚で摘み取り、掌の中に摘み取った葉をためるようにして摘んでいきます。そして手がいっぱいになったら、腰につけた竹籠の中へ新芽を入れる。熟練のおばあさん達は5歳ごろから、親と一緒に茶畑へ行き、見よう見まねで茶摘みを習得していったと聞きます。その作業を朝早くから夕方まで続けるためには、相応の体力と根気も必要です。熟練の方でも一日に摘める茶は10kgほど、それを加工すると2kgほどのお茶になります。
農村が高齢化し、若い世代の後継者がいないということは、このような技術も継承されることなく失われていきます。だから、今の時代に手摘みでお茶を作ろうとしても、まず摘み手が集まらないという大きな問題に直面します。
2年前に手摘み新茶を作り始めた頃、周りの友人や仲間達に声をかけました。手摘みの経験がほとんど無い人たちであっても、継続していくことで確実に技術は身につけていくものです。1年目から参加してくれている方々は、徐々にコツを掴み、3年目になる今年は両手で摘むほどにまでなり、とても頼もしい!
お茶を摘みながら、いろんなお話をしました。農業の集約化と効率化の流れの中で、ほんの少量しか作ることのできない、手摘み茶は姿を消していきます。同時に、農地の区画が小さく、大型機械の導入が難しい中山間地ではお茶の生産自体が急速に減少し、耕作放棄地が年々増えているのが現状です。効率や経済などの尺度で計れば、真っ先に切り捨てられるのが、手摘みによる茶づくりであり、中山間地などの産地です。けれども、その過程で失われていく地域の特性や豊かさについて、私たちはもう少し真剣に考える必要があると思うのです。完全に失われてしまってからでは遅いのです。
手摘みによるお茶づくりは、決して一人のチカラではできません。大勢が集まり、チカラを合わせて初めてできるお茶です。協働をとおして、お互いの存在を認めあい、自分をその一員として見出す。一人のチカラでは及ばないことに、皆がチカラを合わせることで到達する。個人主義がことさら強調され閉塞感が漂う現代社会だからこそ、そんなあり方が見直される時だと思うのです。それは人間社会だけに限るものでなく、人間が自然の一部として自らを認識すること、自然の中でのあり方にまで至る大切な思想だと思います。
茶摘みの当日は子ども達も大勢来て、茶摘みをしたり、畑の周りで赤い実をつけた野いちごを探したり、自由に遊んでいました。朝から晩まで山間に黄色い声がこだまし、なんとも幸せな日でした。煎茶の湯気の向こう側に、そんな情景を思い浮かべていただけたら幸いです。
今年も無事に新茶を収穫できたこと、近くで遠くで支えてくれる方々に深い感謝を込めて!新茶のご注文はこちらからお願いします。